R-style 『知的生活とは何か』連載の読書メモ(抜き書き)
にも関わらず、その本を「わかった」としてしまうと、悲劇が生じる。単にその本のことを過小評価するだけでない","読書の面白さが、感興量Xであるならば、一体そんなものを必死に求める気になるだろうか。なるはずがない。 この点から、(やや飛躍はあるだろうが)私は、知的生活というのを、「わかる」に向かおうとする生活だと定義してみたい。"
"「わかる」に向かおうとする生活は、必然的に「わからない」に耐える生活でもある。あるいは、「わからない」と併走する生活であるといってもいい。 「わからない」から「わかろうとする」のであり、「わかる」まではずっと「わからない」状態でありつづける。"
"・「未来」は(簡単には)わからない出来事である
ということを受け入れるということだ。
「未来」がわからないなら、計画経済は放棄されるだろうし、「私」がわからないならパターナリズムは持ち得ない。「あなた」がわからないなら、その存在を「適切な場所に配置」することはできないし、それは他者を管理下に置くことを手放す、ということになる。政治的観点でも、無知のヴェールを肯定する方向に向かうだろう。 結果的にそれは、リベラル的価値感に近づいていく。" "人間は現実をそのまま知覚しているのではなく、解釈して認知へと変換しているので、「〜〜なはずだ」という思いが強いと、それに合わせて現実を変えてしまうことがある。","対話は面倒で、うまくいくかどうかもわからない。だったら、そんなことしなければいいじゃないか、となった途端に、「わかる」に向かうベクトルは失われる。" 不安定さとは、愚かさであり、変化の可能性である。手間や面倒さとは、手を伸ばすことであり、リンクをつなげることだ。" "生産を志すというよりも、むしろ生産せざるをえないような形で情報を受け取ること。"